認知症の母と暮らしてたおはなし① はじまり
※だいぶんこのお話はここに書くか迷いましたが別にブログ立ち上げるのも面倒なのでここにしちゃいました。
なので固有名詞など極力ふんわりさせます。
以降アップしたらリンクひっつけます
認知症の母を特別介護老人保健施設(以下「特養」)に入所させました。
わたしの周りには実際特養に親を入所させた人というのがまだあまり存在せず、それはわたしが親にとって遅い子末っ子だというのもあり同世代の友人は現在介護開始あたりのボーダーにいるわけです。
ですから情報といえばwebや書籍、会社の少し世代が上の同僚などからで、もちろん同じ区(介護関係は居住の行政機関が担当)の人から手続きや日々の事を話す機会もほとんどありません。
そんな中、順番待ち数百人のその番号すら振られなかった母がひょいとすくい上げられ一ヶ月半ほどの間に特養入所ということに。
そんな、母が行き着いた場所をみつけるまでの事を忘れないうちに、思い出せるうちに書いておきたいと思います。
参考にしてとか、みんな頑張ろうとかそういうたぐいのお話ではありません。わたしがこういった事を経験した、というただの記録です。シモの話しも出ます。リアルなお金の話も泣き言も書きます。そういう記録です。
最初に登場人物はこんな感じです。いまさらですがいちおう。
わたし:
言わずもがなわたくしめけ助です。10年以上前にバツイチの看板かかげ子供ふたりと東京23区内の実家で暮らしています。普通の会社員です。たぶん。めちゃくちゃ父親っ子。人生ハードモードでこれまで来たので、ふいに現れた静かな時間に現在戸惑いと安らぎが混在するロケンロールな状態。
ババ:
わたしの母、東日本大震災の年に夫であるわたしの父を亡くし急速に認知症進行。
嫁いでから世界は家と町内だけ、大家族自営業の家の嫁でした。昭和7年生まれ。性格は穏やかですが、何ごとも周りが決めた事に従って生きてきたひと。わたしとは不仲ではないけれど心通わすことは無いドライな親子関係。
息子と娘:
最初仮名で設定したけどほぼ登場しないので無しにしました。これはわたしが「要介護者が居る家庭に生まれ育って、家族、特に子供がどういう役割をさせられるかを実体験として重く持っているため、我が子たちには絶対「子供(孫)だから介護を手伝ってあたりまえ」にしないをモットーとしているからで。もちろん助けてもらったり嫌な思いもたくさんさせてしまったので感謝してるいるのであるよ。
兄:
事情により我が家に父が亡くなる直前に転がり込んできた居候。離婚した元妻子有り。会社員。典型的な長男母親っ子(父は苦手)。口は出すけど金は一銭も出ないので現在口すら塞いでやりました(ほぼ空気)。
ケアマネージャー(以下ケアマネ):
途中担当が2度かわってますがプロフェッショナルな方々。地元の老人介護支援センターのスタッフ。月に1度家に家庭訪問してケアプランや日常の相談、母の様子のチェックをします。この方々が居なかったら世界はまるで違っていたというくらい重要。
まずおおまかに母の介護のながれを自分の頭の整理兼ねて書くと、
- 物忘れが増える(60代から)
- 本人が自覚し始める(70代)
- 夫亡き後、日々の制約が無くなり家事が急速に出来なくなる
- 介護認定、要支援2。地元医にてアルツハイマー型として投薬開始。
- 散歩に出かけ戻れない事が起き始める
- 明らかな徘徊開始(時間問わず外に出てしまう)
- 徘徊悪化、同時に意思疎通の会話がほとんど不可に(一方的な発言はあり)
- 徘徊で帰宅出来ず、翌日警察に保護される日が続く
- 介護認定前に医師の変更。大病院の専門医、改めて投薬開始。
- 介護認定、要介護3(特養申込み開始、判定C※1年間入所可能性無し)
- 平日日中デイケアで過ごす。徘徊は継続(玄関の鍵強化)
- 異食・トイレの失敗など異常行動増加
- 徘徊行為消失(デイケアでは帰りたがる行動は有り)
- 言葉は意味をなさないフレーズひとつを繰り返すだけになる。
- 特養申込みここまでずっと判定Cのまま
- 突然特養入所の意思確認連絡
- 特養入所 ←いまここ
さてどこから書こうか。
思いつくことをぼちぼちあげていきます。