ここはめけ助の場外乱闘場。

認知症の母と暮らしてたおはなし③ デイケア通所施設へ

ババが最初に通い始めた介護施設(ケアホーム・ハウス・センターと名称はいろいろ)はケアマネが通いやすさと費用、ケアの内容や施設の規模、わたしが仕事に行っている間できるだけ長く預かってくれるということで、空きがあるところをいくつか選別してくれたなかのひとつ。

 

朝晩の送迎があっても朝はだいたいどこも9時からなので送り出す時にわたしが出勤済み。帰りも仕事から戻る時間までは預かってもらえない。(終了時間は施設によってわりとまちまちだけど基本的に夕方までが多かった)

とにかく当時は徘徊がひどかったので、ひとりにするとすぐに出ていってしまう。そんな事情にできるだけ協力しますとおっしゃってくれた隣の駅の施設に決まった。

 

「担当者会議」

通所施設が決まると「担当者会議」というのをやらなければならないのだ。これは本人・主な介護者(うちの場合はわたし)・ケアマネ・利用する施設職員で行って、区の職員は来ません。形式的な顔合わせだけど、家に数人集まってやるので家族の精神的負担はわりと来ます。

ナニを会議するかというと、母の様子の観察、どんなクセがあるか、注意することはなにか、今までどういった人生を歩んできたかまで改めて説明して、ではどういった介護方針でいくか、といった内容。そしていつから、何時から、どういった介護をするかといったケアプランが正式に作られ、捺印しておわり。

 

この最初の施設はだいたい他の施設も通所中の過ごし方は似たり寄ったりだけど、小規模だったせいか前記の送り迎えを配慮してくれたり、徘徊の酷さに大変な努力をしてくれたり(これは当時はわたしの耳には一切入れず最後に教えてくれた。これもとてもありがたかった。当時聞いてたら申し訳無さから通所をやめるなんてことを選択してたかもしれないメンタルだったから)とても良くして頂いた。

 

通い始めた頃のババはだいぶん行くのを抵抗して、朝起こすとまだ多少の会話は出来たので「わたしいやなのよ!」と布団の中から大声を出したり、行っても5分と座っておらずうろうろと外に出ようとして30分ほど個別に散歩に連れていってもらったりしていた。なにより通所1日目にして帰宅してすぐに出ていき(家は無人の時間)、結局その夜警察に保護依頼して翌日の午後発見と施設のスタッフにとっては「自分たちが送り届けた直後に行方不明」という大変心配な人だったので、特に手厚くみて頂いたと思う。

 

通所中の母の1日はこんな感じ。

 

・起床(わたしが起こして着替え、顔と手を拭いて朝ごはん、お薬)

・お迎え(小さなバンで地域を順次まわるので時間の都合から一番最初に来てくれた)

・体操や歌や手を使う作業(折り紙とか塗り絵とか)などリハビリ

・お昼ごはん

・週2回お風呂(家でお風呂は毎日入っていたけど自力で洗いきれてないために入浴サービスはお願いしていた。月に一度は美容師さんが来て安い値段でボランティアカットもしてくれた。)

・送り届け(これもできるだけ一番順番の最後にしてくれた)

・ひとりきりの時間(これが危険。すぐに徘徊しに出ようとする)

・夕ごはん(わたしが帰宅してから)

・お風呂(とにかくお風呂だけは時間きっちりに入らないと気がすまず、追い焚きも何故か最後まで記憶していたのでとても危険だった。ちょこちょこお風呂の横で様子を見る必要あり)

・就寝(眠ってしまえば比較的朝までおとなしく眠る。ときどき昼夜逆転して夜中に起きて着替えたり外に出ようとしたりしたけれど)

 

平日はこれでなんとか乗り切ってましたが(それでも徘徊で戻れず定期的に警察に保護される状態)土日の家族の休日が、平日楽になった分なかなか大変に。なんせ目を離すと消える。日常動作はだいぶゆっくりになっていたけれど、徘徊のため家を出る事に関しては凄まじいエネルギーで階段を駆け下りる。

 

この徘徊の事件簿はまた別にまとめますが(ほんといろいろやらかしたから)、最終的に「家の中からも鍵を使って開ける鍵を設置」で解決することになった。(この事はババの徘徊、我々の最大の負担が解決した大きな出来事で、それについてはちゃんと別で書きたいのだ)

 

その後順調にババの通所は続き、だいぶ落ち着いてきた頃に残念ながらその施設が事情により閉鎖。ケアマネが必死に次の施設を探してくれて、ありがたいことに一番近所の徒歩で行ける施設、しかもクリニック併設というところが引き受けてくれることに。その頃は徘徊も減りつつあった事、その上併設のクリニックに通所中施設のスタッフが通院もさせてくれて近所の調剤薬局も連携して薬も持たせてくれるようになり、毎月1日休みを取って通院させてた総合病院から転院させてわたしの負担もぐんと減った。

 

 

施設でババは主に「塗り絵」や「工作」にいそしんでた。最初に「前は自分でボケ防止といって塗り絵やパズルをやっていた」と伝えたので日々のリハビリとして採用してくれてた。でもこれがまた落ち着いて出来るようになるまでクレヨンは食べちゃうし折り紙は食べちゃうしとにかくカラフルなものを口にしてしまうという「異食行為」が出て、この異食行為は今も続いてる。それで色鉛筆に代えてもらったり、カラフルなものを目の前に置かないといった配慮をしてもらい、ただ単色でぐいぐいと線をひくだけだったのが塗り絵の枠の中を塗る、枠ごとに色を代えて塗る、と少しづつ上達したので脳の仕組みっていうのはすごいなあと思った。

 

それと短期記憶・長期記憶というのがあるけど、ある日施設で毎日書いてくれる連絡帳に「今日、ボランティアの方が民謡を踊りに来てくれました。お母さんが昔民舞をやられていたとのことで舞台にあげたら突然曲にあわせて踊り始めてみんなとても驚きました」と書かれていたことがあった。わたしも驚いた。踊りももう10年ほど「もう覚えられないから辞める」と言って踊っていなかったので。こういったこともデイケアに通ったおかげでババの脳の引き出しから出されたわけで、家で過ごさせていたらどんどん奥底にしまわれていたと思う。

 

と、良いことづくめかというと、負担は減ったし塗り絵は上達したけれど、認知症の度合いはどんどんと重くなり、徘徊がおさまったと同時に言葉(会話はすでに難しかったけれど一方的にいくつかのセリフを話す事や相手になんとか言い返そうという意思は見えてた)をあっという間に失い、意味のない「いっちょ」というどこから来たんだ?という単語がすべてになった。

 

わたし「ババごはん食べるよ」

ババ「そういっちょ」

わたし「(持ち帰った塗り絵を見せながら)すごいじゃん、上手になったじゃん」

ババ「そういっちょ、すーいっちょ」

わたし「おはようババ」

ババ「すーーーいっちょっ」

 

施設でも「いっちょさん」とあだ名で他のお仲間に呼ばれるようになった。

身体面では徘徊しなくなった分当然歩く量も激減したので弱り転びやすくなり、家で過ごす時間食べることのみ要求が残り、冷蔵庫のお味噌を手でかきこんで食べたり食卓塩を口に流し込んだりし始めてしまった。トイレも自力で行くことは出来ていたけれど、だんだんと失敗率が上がり、施設でも下着とズボンを汚して洗濯持ち帰りの日が増えてきたことで紙おむつに切り替え。何度か遅れて直接連れて行ったり、クリニックに寄るついでに様子を見せてもらったりしたけれど、穏やかに他の元気なおばあちゃん達に「いっちょさん、ほらこっちよ」と世話をやかれて過ごしてた。

 

手続き的には通所中毎月ケアマネが家に訪問して(ありがたいことにわたしの休みの土曜に毎回都合をつけて来てくれた)日常の相談や次月のケアプランの確認などをして、なにより「お世話をする娘さん(わたし)が倒れたら困るからね」と、メンタル面ふくめ一切の発言を否定せず(これはデイケア施設のスタッフも同じ)「がんばってる、それでいいと思う」と受け止めてくれたことは大きな支えになったもんです。

 

もちろんうちのババほど大変になる前、ただ日中家で過ごすよりはと通所される方も多く居るので(実際担当ケアマネが居るところに併設されてる所でばったりと近所のめちゃくちゃ元気なばあちゃんに会って「旦那死んで暇だから時々来てるのよ!がはは!」なんて言われた事もある)今はまだ不要と思っても週1日でも通うことは悪くないんじゃないかと思います。(家以外の場所に定期的に出向くという習慣づけのためにも、あと介護認定を継続させるという意味でも)

 

次はババが起こした認知症事件簿を書き連ねます。いろいろやらかしたよ…今ふと思いつくだけでも「警視庁24時間密着」に出てるんじゃレベルだよ…