ここはめけ助の場外乱闘場。

認知症の母と暮らしてたおはなし③ デイケア通所施設へ

ババが最初に通い始めた介護施設(ケアホーム・ハウス・センターと名称はいろいろ)はケアマネが通いやすさと費用、ケアの内容や施設の規模、わたしが仕事に行っている間できるだけ長く預かってくれるということで、空きがあるところをいくつか選別してくれたなかのひとつ。

 

朝晩の送迎があっても朝はだいたいどこも9時からなので送り出す時にわたしが出勤済み。帰りも仕事から戻る時間までは預かってもらえない。(終了時間は施設によってわりとまちまちだけど基本的に夕方までが多かった)

とにかく当時は徘徊がひどかったので、ひとりにするとすぐに出ていってしまう。そんな事情にできるだけ協力しますとおっしゃってくれた隣の駅の施設に決まった。

 

「担当者会議」

通所施設が決まると「担当者会議」というのをやらなければならないのだ。これは本人・主な介護者(うちの場合はわたし)・ケアマネ・利用する施設職員で行って、区の職員は来ません。形式的な顔合わせだけど、家に数人集まってやるので家族の精神的負担はわりと来ます。

ナニを会議するかというと、母の様子の観察、どんなクセがあるか、注意することはなにか、今までどういった人生を歩んできたかまで改めて説明して、ではどういった介護方針でいくか、といった内容。そしていつから、何時から、どういった介護をするかといったケアプランが正式に作られ、捺印しておわり。

 

この最初の施設はだいたい他の施設も通所中の過ごし方は似たり寄ったりだけど、小規模だったせいか前記の送り迎えを配慮してくれたり、徘徊の酷さに大変な努力をしてくれたり(これは当時はわたしの耳には一切入れず最後に教えてくれた。これもとてもありがたかった。当時聞いてたら申し訳無さから通所をやめるなんてことを選択してたかもしれないメンタルだったから)とても良くして頂いた。

 

通い始めた頃のババはだいぶん行くのを抵抗して、朝起こすとまだ多少の会話は出来たので「わたしいやなのよ!」と布団の中から大声を出したり、行っても5分と座っておらずうろうろと外に出ようとして30分ほど個別に散歩に連れていってもらったりしていた。なにより通所1日目にして帰宅してすぐに出ていき(家は無人の時間)、結局その夜警察に保護依頼して翌日の午後発見と施設のスタッフにとっては「自分たちが送り届けた直後に行方不明」という大変心配な人だったので、特に手厚くみて頂いたと思う。

 

通所中の母の1日はこんな感じ。

 

・起床(わたしが起こして着替え、顔と手を拭いて朝ごはん、お薬)

・お迎え(小さなバンで地域を順次まわるので時間の都合から一番最初に来てくれた)

・体操や歌や手を使う作業(折り紙とか塗り絵とか)などリハビリ

・お昼ごはん

・週2回お風呂(家でお風呂は毎日入っていたけど自力で洗いきれてないために入浴サービスはお願いしていた。月に一度は美容師さんが来て安い値段でボランティアカットもしてくれた。)

・送り届け(これもできるだけ一番順番の最後にしてくれた)

・ひとりきりの時間(これが危険。すぐに徘徊しに出ようとする)

・夕ごはん(わたしが帰宅してから)

・お風呂(とにかくお風呂だけは時間きっちりに入らないと気がすまず、追い焚きも何故か最後まで記憶していたのでとても危険だった。ちょこちょこお風呂の横で様子を見る必要あり)

・就寝(眠ってしまえば比較的朝までおとなしく眠る。ときどき昼夜逆転して夜中に起きて着替えたり外に出ようとしたりしたけれど)

 

平日はこれでなんとか乗り切ってましたが(それでも徘徊で戻れず定期的に警察に保護される状態)土日の家族の休日が、平日楽になった分なかなか大変に。なんせ目を離すと消える。日常動作はだいぶゆっくりになっていたけれど、徘徊のため家を出る事に関しては凄まじいエネルギーで階段を駆け下りる。

 

この徘徊の事件簿はまた別にまとめますが(ほんといろいろやらかしたから)、最終的に「家の中からも鍵を使って開ける鍵を設置」で解決することになった。(この事はババの徘徊、我々の最大の負担が解決した大きな出来事で、それについてはちゃんと別で書きたいのだ)

 

その後順調にババの通所は続き、だいぶ落ち着いてきた頃に残念ながらその施設が事情により閉鎖。ケアマネが必死に次の施設を探してくれて、ありがたいことに一番近所の徒歩で行ける施設、しかもクリニック併設というところが引き受けてくれることに。その頃は徘徊も減りつつあった事、その上併設のクリニックに通所中施設のスタッフが通院もさせてくれて近所の調剤薬局も連携して薬も持たせてくれるようになり、毎月1日休みを取って通院させてた総合病院から転院させてわたしの負担もぐんと減った。

 

 

施設でババは主に「塗り絵」や「工作」にいそしんでた。最初に「前は自分でボケ防止といって塗り絵やパズルをやっていた」と伝えたので日々のリハビリとして採用してくれてた。でもこれがまた落ち着いて出来るようになるまでクレヨンは食べちゃうし折り紙は食べちゃうしとにかくカラフルなものを口にしてしまうという「異食行為」が出て、この異食行為は今も続いてる。それで色鉛筆に代えてもらったり、カラフルなものを目の前に置かないといった配慮をしてもらい、ただ単色でぐいぐいと線をひくだけだったのが塗り絵の枠の中を塗る、枠ごとに色を代えて塗る、と少しづつ上達したので脳の仕組みっていうのはすごいなあと思った。

 

それと短期記憶・長期記憶というのがあるけど、ある日施設で毎日書いてくれる連絡帳に「今日、ボランティアの方が民謡を踊りに来てくれました。お母さんが昔民舞をやられていたとのことで舞台にあげたら突然曲にあわせて踊り始めてみんなとても驚きました」と書かれていたことがあった。わたしも驚いた。踊りももう10年ほど「もう覚えられないから辞める」と言って踊っていなかったので。こういったこともデイケアに通ったおかげでババの脳の引き出しから出されたわけで、家で過ごさせていたらどんどん奥底にしまわれていたと思う。

 

と、良いことづくめかというと、負担は減ったし塗り絵は上達したけれど、認知症の度合いはどんどんと重くなり、徘徊がおさまったと同時に言葉(会話はすでに難しかったけれど一方的にいくつかのセリフを話す事や相手になんとか言い返そうという意思は見えてた)をあっという間に失い、意味のない「いっちょ」というどこから来たんだ?という単語がすべてになった。

 

わたし「ババごはん食べるよ」

ババ「そういっちょ」

わたし「(持ち帰った塗り絵を見せながら)すごいじゃん、上手になったじゃん」

ババ「そういっちょ、すーいっちょ」

わたし「おはようババ」

ババ「すーーーいっちょっ」

 

施設でも「いっちょさん」とあだ名で他のお仲間に呼ばれるようになった。

身体面では徘徊しなくなった分当然歩く量も激減したので弱り転びやすくなり、家で過ごす時間食べることのみ要求が残り、冷蔵庫のお味噌を手でかきこんで食べたり食卓塩を口に流し込んだりし始めてしまった。トイレも自力で行くことは出来ていたけれど、だんだんと失敗率が上がり、施設でも下着とズボンを汚して洗濯持ち帰りの日が増えてきたことで紙おむつに切り替え。何度か遅れて直接連れて行ったり、クリニックに寄るついでに様子を見せてもらったりしたけれど、穏やかに他の元気なおばあちゃん達に「いっちょさん、ほらこっちよ」と世話をやかれて過ごしてた。

 

手続き的には通所中毎月ケアマネが家に訪問して(ありがたいことにわたしの休みの土曜に毎回都合をつけて来てくれた)日常の相談や次月のケアプランの確認などをして、なにより「お世話をする娘さん(わたし)が倒れたら困るからね」と、メンタル面ふくめ一切の発言を否定せず(これはデイケア施設のスタッフも同じ)「がんばってる、それでいいと思う」と受け止めてくれたことは大きな支えになったもんです。

 

もちろんうちのババほど大変になる前、ただ日中家で過ごすよりはと通所される方も多く居るので(実際担当ケアマネが居るところに併設されてる所でばったりと近所のめちゃくちゃ元気なばあちゃんに会って「旦那死んで暇だから時々来てるのよ!がはは!」なんて言われた事もある)今はまだ不要と思っても週1日でも通うことは悪くないんじゃないかと思います。(家以外の場所に定期的に出向くという習慣づけのためにも、あと介護認定を継続させるという意味でも)

 

次はババが起こした認知症事件簿を書き連ねます。いろいろやらかしたよ…今ふと思いつくだけでも「警視庁24時間密着」に出てるんじゃレベルだよ…

 

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認知症の母と暮らしてたおはなし② 介護認定

最初に気づいていたのは多分本人(ババ)で、我々子供(わたしと兄)は加齢によるボケ程度と。

 

父の入院が長期化した末に亡くなり、日々のことを少しづつ忘れて本人は「ご飯のこと考えなくていいから気楽」と喜んでいたけど、それがある意味引き金なんだろうね、まず料理が出来なくなっていき居候の兄の為に日々せっせと同じスーパーのお惣菜を「お店のひとがこれが美味しいから買いなさいと言ったから」と買ってくる。きゅうりや大根なんかの当たり前の素材を「食べられるもの?」と聞き、わたしが作ったものをしげしげと見つめ「こんなの食べたことなかったわ」(ババの得意料理ですが)と言い出したのが2011年。

 

もともとなにかしら自覚が有ったのか、ババは「わたしバカになっちゃったみたい」と口にして、そんな時わたしは「バカって言ってるとバカになるから言わない」と。(結局この「わたしバカになっちゃった」という言葉は、会話不可になる直前まで口に出してたセリフになってしまったからやっぱり自分で口にしたらいけないぞ。)

もしや耳が悪くて聞き取れないせいで理解できないのかもと補聴器をすすめたり、(音が嫌だと結局つけなかった)目が見えづらくてテレビの内容もわからないのかと眼鏡を新調したり、最終的には医師の診断による投薬(アルツハイマー型であろうと薬を出されていたけど、これは後に誤診と判明)を開始したけれど、どうやらこっそり薬を飲むのを放棄して捨てていたらしい。(これはご近所の人から「お母さん薬を飲むと頭がいたくて飲むのやめたって言ってたわよ」と聞かされて判明)

 

この頃一度介護認定で要支援2。

その翌年は認定申請せず(兄の「まだ不要だ」と私の多忙さ。あと当時の担当ケアマネの怠慢も有り。ケアマネは当たりハズレありますぶっちゃけ)。これが失敗だった。申請は落ちてもひたすら継続で申請するべきだった。(これについてはまた後で)

 

若い頃からひとりで歩くのが好きで、山育ちのせいか足腰は丈夫。東京都のシルバーパス(70歳以上に交付、都内のバスほとんどが無料)を手に地元駅からバスに乗り行き着くところまで行き、そこから乗り継ぎまた乗り継ぎ。今日はどこそこへ行って来たと楽しそうに話す様子に、それを止めることもなく日々過ぎていったけど、だんだん帰宅が遅くなる日が増え、すわ警察に捜索願いかって時間になって「親切な人が声をかけてくれて駅まで戻る電車に乗せてくれた」とへとへとで戻ってくる。

ババはもともと人に話しかけるのが苦手で、道がわからないから人に聞いたり、出先で空腹になったからひとりで食事をするといった事が出来ない。いつも困った様子を見て周りのひとが声をかけてくれて助かってた。(ほんとうに命救われたってレベルで助けられた事もあり、これもまた別で書きます)

 

そんな中、ある日わたしが仕事から戻ると洗濯機が使われた様子が。見たら母の服。いつものように外出した先でもらして(大)そのままバスに乗り戻ったらしい。日常で買い物は生活のルーチンから外れなかったらしく、未払いで来られても困るので常にいくらかのお金を持たせてはいたけど、それで母は便秘薬を大量に買って飲んで出かけていたのだ。(母の部屋から見つかった)そりゃあ漏れるわね。

もちろん薬は撤収。言い訳もせず「そうなの、出ちゃったのよ」と平然とする母をお風呂に入れて洗濯し直して(洗剤の使用も出来なくなってたから)家中あちこちに便の付いた手で触っていたので消毒薬片手に汗かくわたし。本人は汚したことは理解していたけれど(だから洗濯しようとした)それが恥ずかしいことであるとか迷惑なことであるとかは理解出来なくなってた。

 

このシモ関係は後々も本当にストレスに。

最終的に特養に入れる、と判断したのもシモの事が大きい。大変だよね。これはもう声を大にして言いたい。大変なんだよ。人間の尊厳と言ったら大げさだけど、

 

うんこが日々家族の心をじわじわ傷つけて塩塗り込んできます。うんこが!(大切)

 

そのうんこきっかけで、これはいかんと思い良い顔をしない兄を無視して再び介護認定申請。いきなり要介護3の認定。

新たに担当になったケアマネに「良くここまでご家族だけでみてましたね」と。わたしは「ああそうか、家族だけでみなくてもいいのか」とここでやっと気づいた。我慢のしどころがうまくわからなくなっていたんです。

これはわたしの過去の経験のこともあって、我慢という感覚が少し鈍感になっていたせいもあるので、通常はもっと早く介護申請する家庭が多いそうです。というかみんなしようね、1日も早く介護申請はしようね。

 

はてさてこの介護認定とはどうすればよいのか。下記はうちの区の場合。

 

 1.要介護認定・要支援認定の申請

            ↓

2.認定調査員による訪問調査の実施

            ↓
3.主治医による主治医意見書の作成

            ↓
4.介護認定審査会における要介護状態区分の審査判定

            ↓
5.申請者に対する認定結果通知の送付

 

という流れです。実際どうだったかというと

 

1.要介護認定・要支援認定の申請

 我が家の場合は直接近所の「在宅介護支援センター」というケアマネが在中してデイサービスも施設内で行っている中規模の事務所に直接相談に。これは父が存命中、退院出来てもほぼ寝たきりとなるため家の中の段差をスロープにしたり、お風呂に手すりをつけたりの補助を受けるため介護認定を申請する時に相談に行ったところで、結局認定前に父は亡くなったため利用はしなかったのだけど、とても良く対応してくれたため区役所でなくまずこちらに相談、担当ケアマネが決定してそこから役所関係の手続きに。申請書作成では家族構成から生活の内容までみっちりヒアリングされます。この段階でケアマネとがっつりタッグ組めたのが良かった。

 

2.認定調査員による訪問調査の実施

 直接家にケアマネ・区の担当職員が来て本人の様子を調査。家族からのヒアリングが重要になるので、しっかり日常の状態・困っていることを強く主張してくださいとケアマネからアドバイス有り。区の担当者がどれほど力を持ってるかは知りませんが、これも理解の有る方がほとんどですが時々喧嘩ふっかけてるのかという人も居ます。(わたしは実際ひとり危うく首根っこつかんで追い出すかって人に当たった事あり)

この認定調査は初回は翌年更新、その後規定では2年更新だけど日々日々変化が大きいのでそこらへんは数ヶ月で再調査・認定ということも有るとのこと。うちは結局初回含めて今まで4回くらい調査受けた。

 

3.主治医による主治医意見書の作成

 このために我が家は近所のクリニックから紹介を受けて某有名総合病院に転院。目的は認知症に詳しい力のある医師を担当者とするため。地元医がはっきりと「自分の名前よりこの先生の名前で書類を作ったほうが有効」と介護認定について言ってたので、まあお察しくださいという感じ。

 

4.介護認定審査会における要介護状態区分の審査判定

 これはもうどんな様子でどう審査されるかはわかりません。区役所の担当職員や介護に関わる誰かしらが集まってやるみたいですが、直接関わるケアマネが出席したという話しは聞いたことないです。(してるのかもですけど)

 

5.申請者に対する認定結果通知の送付

 郵送でひそやかに届きます。

 

認定がおりる前からケアマネが要介護いくつかをある程度想定してケアプランを作り(想定で2)、それより上の要介護3だったため(※要介護は一番軽いのが1で2・3・4・5と上がっていきます。認知症は身体はしっかりしてたりするとなかなか3以上の判定は出にくいとのこと)予定以上に介護支援を受けられる事になり平日フルでケアホーム・ハウスと呼ばれる介護施設に日中少ない金銭的負担で預けられる事になりました。(とはいえ食費など平均3万程は月々自腹で出します。その後規定以上の金額は区から戻ってきます。我が家の場合は6,000円くらい戻ってた。これは世帯収入などで変動します)

 

もちろん居住してる行政によって上記の対応はまちまちだという事で。

 

こうしてまずは平日の日中比較的近所のケアホームに通う事になったババ。

次はケアホームについて書こうと思います。

 

 

※参考まで、要介護状態っていうのはこういうふうに定められてます。

要介護状態」とは、身体上又は精神上の障害があるために、入浴、排せつ、食事等の日常生活における基本的な動作の全部又は一部について、厚生労働省令で定める期間(原則として6ヶ月間)にわたり継続して、常時介護を要すると見込まれる状態であって、その介護の必要の程度に応じて厚生労働省令で定める区分(以下「要介護状態区分」という。)のいずれかに該当するもの(要支援状態に該当するものを除く。)をいう(第7条第1項)。要介護状態には、要介護1から要介護5まで5つの要介護状態区分が設けられている。要介護状態にある被保険者を「要介護者」という(第7条第3項)。

 

要支援だと

要支援状態」とは、身体上若しくは精神上の障害があるために入浴、排せつ、食事等の日常生活における基本的な動作の全部若しくは一部について厚生労働省令で定める期間(原則として6ヶ月間)にわたり継続して常時介護を要する状態の軽減若しくは悪化の防止に特に資する支援を要すると見込まれ、又は身体上若しくは精神上の障害があるために厚生労働省令で定める期間にわたり継続して日常生活を営むのに支障があると見込まれる状態であって、支援の必要の程度に応じて厚生労働省令で定める区分(以下「要支援状態区分」という。)のいずれかに該当するものをいう(第7条第2項)。要支援状態には、要支援1と要支援2の2つの要支援状態区分が設けられている。要支援状態にある被保険者を「要支援者」という(第7条第4項)。

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認知症の母と暮らしてたおはなし① はじまり

※だいぶんこのお話はここに書くか迷いましたが別にブログ立ち上げるのも面倒なのでここにしちゃいました。

なので固有名詞など極力ふんわりさせます。

 

  1. はじまり
  2. 介護認定
  3. デイケア通所施設へ

以降アップしたらリンクひっつけます

 

 

認知症の母を特別介護老人保健施設(以下「特養」)に入所させました。

 

わたしの周りには実際特養に親を入所させた人というのがまだあまり存在せず、それはわたしが親にとって遅い子末っ子だというのもあり同世代の友人は現在介護開始あたりのボーダーにいるわけです。

ですから情報といえばwebや書籍、会社の少し世代が上の同僚などからで、もちろん同じ区(介護関係は居住の行政機関が担当)の人から手続きや日々の事を話す機会もほとんどありません。

 

そんな中、順番待ち数百人のその番号すら振られなかった母がひょいとすくい上げられ一ヶ月半ほどの間に特養入所ということに。

そんな、母が行き着いた場所をみつけるまでの事を忘れないうちに、思い出せるうちに書いておきたいと思います。

 

参考にしてとか、みんな頑張ろうとかそういうたぐいのお話ではありません。わたしがこういった事を経験した、というただの記録です。シモの話しも出ます。リアルなお金の話も泣き言も書きます。そういう記録です。

 

 

最初に登場人物はこんな感じです。いまさらですがいちおう。

 

わたし:

言わずもがなわたくしめけ助です。10年以上前にバツイチの看板かかげ子供ふたりと東京23区内の実家で暮らしています。普通の会社員です。たぶん。めちゃくちゃ父親っ子。人生ハードモードでこれまで来たので、ふいに現れた静かな時間に現在戸惑いと安らぎが混在するロケンロールな状態。

 

ババ:

わたしの母、東日本大震災の年に夫であるわたしの父を亡くし急速に認知症進行。

嫁いでから世界は家と町内だけ、大家族自営業の家の嫁でした。昭和7年生まれ。性格は穏やかですが、何ごとも周りが決めた事に従って生きてきたひと。わたしとは不仲ではないけれど心通わすことは無いドライな親子関係。

 

息子と娘:

最初仮名で設定したけどほぼ登場しないので無しにしました。これはわたしが「要介護者が居る家庭に生まれ育って、家族、特に子供がどういう役割をさせられるかを実体験として重く持っているため、我が子たちには絶対「子供(孫)だから介護を手伝ってあたりまえ」にしないをモットーとしているからで。もちろん助けてもらったり嫌な思いもたくさんさせてしまったので感謝してるいるのであるよ。

 

兄:

事情により我が家に父が亡くなる直前に転がり込んできた居候。離婚した元妻子有り。会社員。典型的な長男母親っ子(父は苦手)。口は出すけど金は一銭も出ないので現在口すら塞いでやりました(ほぼ空気)。

 

ケアマネージャー(以下ケアマネ):

途中担当が2度かわってますがプロフェッショナルな方々。地元の老人介護支援センターのスタッフ。月に1度家に家庭訪問してケアプランや日常の相談、母の様子のチェックをします。この方々が居なかったら世界はまるで違っていたというくらい重要。

 

まずおおまかに母の介護のながれを自分の頭の整理兼ねて書くと、 

  • 物忘れが増える(60代から)
  • 本人が自覚し始める(70代)
  • 夫亡き後、日々の制約が無くなり家事が急速に出来なくなる
  • 介護認定、要支援2。地元医にてアルツハイマー型として投薬開始。
  • 散歩に出かけ戻れない事が起き始める
  • 明らかな徘徊開始(時間問わず外に出てしまう)
  • 徘徊悪化、同時に意思疎通の会話がほとんど不可に(一方的な発言はあり)
  • 徘徊で帰宅出来ず、翌日警察に保護される日が続く
  • 介護認定前に医師の変更。大病院の専門医、改めて投薬開始。
  • 介護認定、要介護3(特養申込み開始、判定C※1年間入所可能性無し)
  • 平日日中デイケアで過ごす。徘徊は継続(玄関の鍵強化)
  • 異食・トイレの失敗など異常行動増加
  • 徘徊行為消失(デイケアでは帰りたがる行動は有り)
  • 言葉は意味をなさないフレーズひとつを繰り返すだけになる。
  • 特養申込みここまでずっと判定Cのまま
  • 突然特養入所の意思確認連絡
  • 特養入所 ←いまここ

 

さてどこから書こうか。

思いつくことをぼちぼちあげていきます。

 

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息子の友だち。

 

息子は時々友人グループで終電ぎりぎりまで過ごしてくる事があります。

自閉系の発達障害の子が友だちと遊びに出るという事だけでも親にとっては嬉しいかぎりで、帰宅すると疲れてるけど明るい顔で「楽しかった」とぽつりと呟く言葉を聞くのが私は大好きです。

 

先日もまた深夜に帰宅した途端

「お母さん聞いて欲しい」

と複雑な表情をしました。

 

何事かと思ったら、その仲間のひとりに性同一性障害だって告白されたとのこと。

 

友達のまた友達なので良くは知らないけれど、男同士と思って過ごしていた息子にとってネットでちらりと見聞きしてた「性同一性障害」という言葉が身近にあった事はとてもショックだったらしく「これからどう接すればいいのか」と。

 

ちみはその子を今日までどう思ってたのかねと問うたら

「男同士、いいやつ」

と即答するので「今後はどう思うんだね」と問うと

「男同士のままだな」

じゃあなにも変わらんね。ただその子の脳みそもちみの脳みそと同じでちょっと特別だっただけ。自分は人と違うなとちみが今まで思ってきたのと似た悩みをきっと彼も持って過ごしてきてるって事だけ覚えておいけばいいです。それで、彼が何か助けを求めてきた時、力になってあげられたらいいね。

と伝えると、ちょっと考えて「ああ、そうか。わかった。なにも変わらないんだ」

と笑いました。

 

同じ「障害」の文字が付くだけでまったく別ですが、発達障害の息子にとって初めて自分から「障害」とカミングアウトした友だちの存在。

これからも変わらず過ごしてくれたらいいなと願ってます。

 

息子は学生から社会人になる入り口でつまづいてます。

来年は仕事について、もっとたくさんの世界に触れると思います。

世界にはあちこちで障害の有無に関係無くたくさんつまづいて、へこたれて、悩んで迷って泣いて生きてるひとたちが大勢存在している事を知り続けてほしいと思います。

ちみだけじゃないんだよ、って事を知り続けて欲しいと思います。

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2015/12/11 「これを聴け!」セットリ

自分用メモです。※2016/12/05ご本人(な)による修正済みでげす。

チ All You Need Is Love / The Beatles
チ Christmas wish / NRBQ
な Christmas Must Be Tonight / The Band
チ Altogether Alone / Hirth Martinez
な Nobody's Fool / Dan Penn
チ Silly Love Songs / John Pizzarelli
な Brand New Key / Melanie
Ruby Tuesday / Melanie
チ Looking For A Friend / David Blue
な Streets Of London / Ralph McTell
な Streets Of London / Mary Hopkin
チ Do Wah Diddy Diddy / Manfred Mann
な There is Power in The Union / Billy Bragg
チ East of Eden / Victor Young and His Orchestra
な Saint Bartholomew / Andwella
チ Museum / Donovan
Goin' To The Country / Mark Levine
チ Telluride / Kate Wolf
な Little Boy / Heron
な Reason to Believe / Karen Dalton
チ Born To Play Guitar / Buddy Guy
な Eve Of Destruction / P.F. Sloan
チ Long Distance Love / Little Feat
な Voyage of the Moon / Mary Hopkin
な The Picture on Her Wall / Rosie Hardman
チ Winter / The Rolling Stones
チ Harry's Song / Ringo Starr
チ Everybody Loves A Clown / Gary Lewis & The Playboys
な Rock'n Roll Gypsies / Roger Tillison

多分合ってると思いますが違うとこあったら教えてくだしい。

(メモと記憶とGoogleさんとYouTubeさんでやっと補完)

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